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不忘自治会長 佐久間純一さん

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不忘自治会長 佐久間さんにとっての不忘地区とこれから

白石市在住の方へのインタビュー連載第4弾!
今回は白石市の不忘地区で酪農にまつわる様々な仕事を経て、現在は自治会長をされている、佐久間純一さんのインタビューをお届けします。

みんなで入植できる場所へ

ー 本日はお時間いただきありがとうございます。
早速ですがまず、不忘で暮らすことになった経緯について教えてください。

 不忘地区は戦前までは 本当に山の中で自然が厳しくて、人が住めるような状況ではなかったのではと思います。戦後に私たちの親たちが、中国、当時は満州と呼ばれていたのですが、満州から終戦になって、引き上げてきました。その後、 自分たちの出身地である宮城県の県北にある実家に戻ってみたものの働く場所がなく、いつまでも居候をしているわけにもいかず宮城県に指導を仰いだ時に、国策で引揚者や復員者の帰農定着と食料増産のため、戦後開拓が実施されていることを知らされました。そこで、もう一度開拓者になる決意をし、国や県の指導もいただきながら満洲国での開拓団宮城村から引き揚げてきた人達50戸規模がまとまって入植できるところを探し、この不忘に決めました。ところが、不忘地区は自然が厳しく誰も向きもせず人が住めないような所でした。広大な面積があったのもそのためだったようです。そんな場所に入って開拓を始めたということがあります。

 当時は大変だったと聞いています。その中を1つ1つ言ったら言いきれないぐらいの苦労です。着るものも食べるものもない中で開墾してきたという、そういう歴史が延々と続いて今があるわけですよね。私は2代目なので、親たちの姿を見て、話を聞きながら育ってきましたので、開拓ロマンのようなものをずっと体感してきたことで、この不忘地区から離れられなくなりました。夢とロマンもやり方によっては色々生まれてくるという部分も、実際に体験してきているわけですよね。そういうこともあって、この不忘地区がすごく好きです。

助け合いの精神で一緒に暮らす地域住民

ー 不忘地区の好きなところ、魅力についてもお伺いできますか。

 私が不忘を好きなのは、子供の頃から見てきた父のおかげです。特に、両親や開拓仲間達の、周りを助け合う共同心ですね。そこが不忘の魅力だと思っています。
 移住して来た人からは、不忘にいるとみんな親戚付き合いみたいで良いと言ってもらったこともあります。たしかに開拓時代からの人を助けたり心配したり等、そういう精神というか気持ちはみんな持っているので、まとまりが良いですね。
年寄りというわけでもありませんが、我々も70歳代なので、もう少しで後期高齢者になるのですが、お茶飲み会 (茶話会) 等もコミュニティー作りでサロンをやっています。みんな毎回午後1時過ぎから4時くらいまでお茶飲みながら楽しくトランプしたりしていて、そういう集まりにもみんな集まってきます。

人が自然に手を加えることにより生まれるもの

ー 地域のみなさんの繋がりの強さが伝わってきます。
不忘地区のこれからについて考えていることがありましたら伺っても良いでしょうか。

 まず最初にこの地区は、一般作物は駄目で酪農が一番適しているということで、全員が酪農に切り替えて取り組んでいきました。
 時代とともに若者たちは都会に出て行きましたが、二代目、三代目の後継者が将来に夢を抱いて頑張っています。不忘地区の基幹産業でもありますし、この人たちが地区の中心を担っていますので、ここには力を入れていきたいと思っています。

 また、いろんな人たちが出入りしてる中で、軽井沢みたいだねと言ってくださる人もいます。そういう景観を活かして、グリーンパーク不忘で津久井さんは釣り堀りとか、キャンプ場を作り上げたっていう経緯があります。不忘も放っておけば、ただの藪です。グリーンパーク不忘のように綺麗にちゃんと管理をすれば、そこは素晴らしい場所になるんです。やり方次第で不忘はすごい魅力的になっていくし、そうしなきゃいけないと思っています。ただ、それを目指してやる人が今後出てくるかどうかが少し心配です。

 地域での行事としてはまず、春に行う敬老春祭りがあります。開拓当初地区民の心の拠り所として不忘神社を遷座し、毎年地区の安泰と五穀豊穣を祈念して、桜の咲くときに春祭りを行ってきました。近年は敬老行事も加え、敬老者への感謝と長寿を祈念し、地区の春を楽しんでいます。また、不忘分校 (地域で大切に維持管理している休校中の学校) で秋に運動会をやったり、驚くほどに多くの人が参加する青年団の盆踊り大会 (不忘地区に出入りしている業者さん、例えばトラクター屋や農協等に協賛を求めて、草刈り機械とかいろんな景品を集めてくる) では豪華景品が沢山出て、近隣の部落の人たちがみんな集まって来ます。地区としては、そういう行事は大切にしていきたいと思っています。

また、これからは再生エネルギーをちゃんと見直さないといけないのではないかとも考えています。岩手県の葛巻町のように、うまく活かせば観光資源にもなると思うので、協力していこうと思っています。あまり派手に賑やかにならなくていいので、やっぱりここがいいなと思った人が来て、楽しんでもらえれば嬉しいです。

ー 貴重なお話ありがとうございます。グリーンパーク不忘さんのところへ遊びに行ったり、不忘地区の管理された自然を見る度に、人が丁寧に手を入れることの大切さを私も感じています。地区でのイベントもとても楽しそうですね。また、最終的にこの町全体が再生可能エネルギーだけで暮らせているんですってなったら素敵ですね。
これから不忘地区がどのような街になっていくのか楽しみです。

ー 不忘地区へ入植した初代の方々のお話についてより詳しく知りたい方は、下記より続けてご覧ください。

◆不忘地区へ入植した初代の方々の入植の歴史について

 歴史的な部分も言えば、終戦が20年で、不忘の地に両親が辿り着くまでに、1年かかりました。なぜそこまで時間がかかったかと言いますと、満州の開拓団がいた場所はロシアに近く、ロシアとは仲良くしましょうと協定を結んでいたのが、日本がもう負けるとなった時点で、日本人の部落にロシアが攻めてきたんです。当時の兵隊たちはロシア軍が来ると聞いて、みんな線路とかを爆破して逃げてしまいました。すると開拓団の人たちは逃げる列車もないので、着の身着のままで暮らしていた部落を捨てて逃げたのですが、ロシア軍からも飛行機等から攻撃されました。それで、トウモロコシ畑の中とか林の中とかを、子供たちもおぶったりしながら全部歩いて逃げたようです。

 歴史の中で、中国の残留孤児って聞いたことありますよね。あれは、それぞれの家庭に子供が2人3人いた中で、大きい子は連れて一緒に歩けるけれど、小さい子とか赤ん坊とか、そういう人たちは連れて歩いても食べるものもなく、食料がなくなってからは草とか木の実かじりながら逃げたと聞くので、助かる見込みがない状態でした。すると、中国とかロシアの人たちで、情けだったのではないかと思いますが、日本人の子供を欲しがった人たちがいて、そこで預けてきたその子供たちが残留孤児だと後から判明しました。残留孤児が発生したのはそういうことなんです。
 小さい子供たちも連れて逃げたのですが、みんなまともな食べ物も食べないで歩いたりしてたので、途中で飢えと疲れ、病気が出て、日本に着くまでにほとんどの人が子どもを亡くしてきてるんです。親たちはそういう苦労を言わなかったので、私は自分が携わった入植50周年や70周年の記念式典の記念集編集の際に知りました。

 そういう人たちが不忘へまた開拓で入って、掘っ建て小屋から始まって食べ物は何もないという中で苦労してきた部分が礎になっています。それも1人ではできなかったと思います。共同で1つの宿舎をまず立ててそこに入って、共同で食料も何でも、その中で調達しあってやっていました。その共同の建物が、昔は茅とかそういうので作っていて、中の暖とるのは焚き火でそこから引火して今度は火事になって、気づいたときには上の方に燃えていてもう荷物も何もないという、そのような経験を何度も繰り返しながら、当時はしのいでいたようです。

 10月1日は第1歩、不忘に入植した日なんですよ。10月だからすぐ冬ですよね。そんなことで最初の冬はとんでもない苦労をしたということですね。あとは、行政の支援もあったり、あるいは実家がみんな農家だったので、実家とかからも支援があったと思います。そういうことで、周りからいろんな支援をもらいながら、当初は開墾して一般作物を植えたのですが、気候が悪くて穫れませんでした。ジャガイモは作りやすいということで植えたのですが、植えた種芋より小さいものしか取れなかったという、そういう場所でした。それで、陸稲という、田んぼではなくて、畑で育つ稲があるのですが、そういうのやアワとかヒエも植えました。けれども、生活していけるくらいの量は取れませんでした。それで、現金収入を得るために木を切って炭を焼いたり、冬は特にそういう仕事をして過ごしたようです。
 そして、入植して7~8年目ぐらいから、私の父は冬の間は出稼ぎに行っていました。その頃には、作物がダメでも草は生えるので、畜産が良いだろうっていう指導があって、最初はヤギをメインに乳をしぼり、綿羊は毛を取って売っていました。その後開拓組合みたいなのができて、という形でだんだん形になっていきました。
 そのような環境だったので、この辺で冬に炭焼きした人たちは、初期の数年間は炭を作ったり薪を切ったりして、それを白石まで背負って運んでいました。車がなかったので、炭を背負って降りて行って、個人の家まわって売って、そのお金で今度は食べる物や生活で必要なものを買って、帰ってくる。そういうことをやったようです。学校は、朝3時くらいに子供たちは提灯をつけて学校に通って、帰りもまた提灯をつけてうちに帰ってくるという生活でした。そんな感じで、すべてにおいて苦労したっていうのが初代の人たちですね。

不忘自治会長 佐久間純一<span>さん</span>
Profile

不忘自治会長 佐久間純一さん

就農
(株) ミルクファーム蔵王取締役社長
地域交流牧場全国連絡会東北ブロック交流部会長
白石市認定農業者連絡会初代会長
東北酪農教育ファーム推進委員会委員
みやぎ仙南農業協働組合白石地区総代会会長
白石市農業委員会委員        等を歴任

NPO法人 不忘アザレア監事
不忘地区自治会長 就任中